大河ドラマ 西郷どんを 楽しむために ② 幼少の頃の西郷どん 🎆

西郷どんは、明治維新から150年となる2018年1月に放送予定

主人公 薩摩の下級武士の 小吉・吉之助(西郷どん)

西郷家の初代は熊本から鹿児島に移り、鹿児島へ来てからの7代目が父・吉兵衛隆盛、8代目が吉之助隆盛である。

文政10(1827)年12月7日、西郷隆盛は、鹿児島城下の下加冶屋町山之口馬場で生まれました。

(現在の加治屋町に西郷隆盛誕生地・維新ふるさと館が在ります。)

エピソード

この町内がすごい  なんと、同じ町内には、あの大久保利通もいたのです。
しかも、大久保利通と西郷隆盛の父親は共に親しかったといわれ、利通と隆盛も親友と呼べる間柄だったといいます。。   
 しかし・・・・

 

西郷隆盛誕生の地  現 加治屋町

 

西郷家は下級武士の家 4男3女の子だくさんの子沢山の家 身分の低い武士でしたが、。7人兄弟の長男として誕生

幼名は小吉(こきち)、通称は吉之助(きちのすけ)で通しました。
南洲(なんしゅう)はペンネーム(・・?。

西郷家の家格は「御小姓与(おこしょうぐみ)」で、薩摩藩の武士の身分の下から二番目の身分である下級藩士であったことから、幼少期はとても貧しい暮らしをしていたと伝えられています。

一枚の布団で冬の寒さをしのいだこともあるほとの 貧乏の状態だったそうですが、そんな逆境が西郷隆盛の家族や郷土に対する愛情をはぐくんだとも言われています。

貧しい生活の中で

5歳になった西郷は薩摩藩の郷中組織に入り、学問や武士道を 学ぶ
鹿児島の町には独特の若者組織があり、町毎に区切られた郷中という単位で少年たちが集まり、厳しくしつけられるたのです。

郷中教育とは、

鹿児島には、『郷中教育』(ごちゅうきょういく)という薩摩藩伝統の縦割り教育がありました。郷中とは、『方限(ほうぎり)』と呼ばれる区割りを単位とする自治組織のことで、今でいえば町内会単位の自治会組織と考えればよいでしょう。当時、鹿児島の城下には数10戸を単位として、およそ30の郷中があったといわれています。

郷中(ごじゅう)教育とは薩摩藩の独特な青少年教育であり、地域ごとに自発的に実践された集団教育です。最大の特色が「教師なき教育」であり、先輩が後輩を指導し、同輩はお互いに助け合う、いわば 学びつつ教え、教えつつ学ぶ という教育だったよう

昔々の言葉ですが 鹿児島に住んでいる人は、
一回は聞いたことがあると思いますが 

『泣こかい、飛ぼかい、泣こよかひっ飛べ』

先輩が、弟や妹たちと連れだって遊びにいくと、田んぼに用水路があります。
先輩たちが飛び越えてみせます。つぎに、年下の者が飛ぶのに躊躇していると、周りの者が『泣こかい、飛ぼかい、泣こよかひっ飛べ』と囃し立てます。


これは、困難に出会った時はあれこれ考えず、とにかく行動しろという 
郷中教育の名残なのでは と思います。
そんな教育の中で 学問・武芸

薬丸自顕流は郷中教育に取り入れられ下級藩士を中心に伝わり、門弟たちの中から明治維新の元勲が数多く出たため、「薬丸どんの剣」として高名になり、「明治維新は薬丸流でたたきあげた」といわれるまでになる。

次第に下加治屋町郷中の少年達のリーダーとして頭角を 現してきたと有ります。

西郷は13歳のとき、月例のお宮参りに行った際、
喧嘩の仲裁に入り右腕内側の神経を切る
だから、薩摩隼人の誇る示現流剣術などは、まったくやったことがなかった武士であったそう。

その為 右腕を負傷し武芸はあきらめましたが、その分勉学に励み、
二才頭(にせがしら)として郷中の仲間の人望を集めました。
西郷の指導者としての有能さは、この郷中から多くの偉人が
育ったことからもうかがえます。

幼少の頃、武芸ではなく、学問に励んだことが、
西郷にとって後年大いに役立っていくのです。

 

16才の時、西郷は藩の郡方書役助(こおりかたかきやくたすけ)に任命されます。

両親を 早くに亡くし、家計を補うため役人の補佐として働くが
困った人をほっておけず 自分の給金も 弁当も全部与えてしまう始末

エピソード
 西郷どんの明治四、五年頃のこと、政府の高官の弁当をお供の者が自慢話の一つで比べあいした。その日の弁当の豪華さ競ったものだ、中に一人、いくら皆が尋ねても答えない従者がいた。彼の主人は西郷隆盛だった。西郷さんの弁当は竹の皮に包んだ握り飯だったので、恥ずかしく発表出来なかったという。

 

西郷どんが 郡方に任命された時の責任者・郡奉行は、迫田太次右衛門利済(さこたたじうえもんとしなり)という人物でした。迫田は 武士で、西郷はこの迫田に非常に大きな影響を受けたと伝えられています。

気骨のある 農民を第一に思う 人だったそうです。
この句には「国の根本をなすものは農民である」という、
迫田の信念が表れているような気がします。

西郷どんは この迫田から農政に関することを一から学びました。

この迫田から得た知識や経験が、後に西郷が藩主・島津斉彬(なりあきら)に見出される要因となるのです。

二才頭としてリーダーシップを発揮することになった20歳には、自宅に塾生を招いて四書五経の講義や武術の稽古を行ったそうです。

 


 

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次回へ つづく

大河ドラマ 西郷どんを 楽しむために ③ 島津斉彬が 薩摩藩主となる